演説・歴史

(第1回)真珠湾奇襲攻撃【歴史で学ぶ英語・中国語・日本語】(第一弾)真珠湾奇襲から歴史的和解へ

こんにちは。

新しく「歴史で学ぶ英語・中国語・日本語」シリーズを作り、歴史的イベントと関係する記事を「多言語学習サイト・メモリーサポーター」の中から選び、それらの背景などを解説していこうと思います。

シリーズ第1弾「真珠湾奇襲から歴史的和解へ」として、1941年12月8日の「ハワイ真珠湾奇襲」から2016年12月の歴史的な「安倍首相の真珠湾訪問・演説」に至る記事を取り上げたいと思います。

今回は、「真珠湾奇襲から歴史的和解へ」の第1回「真珠湾奇襲攻撃」です。

今回の対象記事は、

です。

世界史上初めての空母機動部隊

現在でも世界中で知らない大人はあまりいないであろう、世界に衝撃を与え続けている真珠湾奇襲攻撃を行ったのは「航空母艦6隻、戦艦2隻、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦9隻」からなる艦隊で、世界で初めて実戦で運用された空母機動部隊です。

1941年11月26日択捉島単冠(ひとかっぷ)湾を出撃し、他船に出会わないよう荒れた冬の北太平洋で無線封鎖しつつ、東へ東へと進んでいました。日本時間12月3日に「ニイタカヤマノボレひとふたまるはち」という無線電報を受信しました。真珠湾を攻撃せよという命令でした。

ハワイ時間の12月7日の夜明けと同時に、オアフ島北約400キロ地点6隻の正規空母から艦載機350機が発艦し、ハワイ時間で12月7日の午前8時ごろ(日本時間12月8日の午前3時半ごろ)、真珠湾に停泊していたアメリカ太平洋艦隊の主力艦艇や飛行場に殺到しました。アメリカ軍の空母はたまたま真珠湾に居合わせず、難を逃れました。

当時世界最高の格闘性能を誇り制空権の確保を担う零式艦上戦闘機(ゼロ戦)、急降下爆撃を行う九九式艦上爆撃機、水平爆撃と魚雷攻撃を行う九七式艦上攻撃機で構成されていましたが、どれも他の列強の有する艦載機の約2倍の航続距離を持っていました。また、支那事変で経験を積んだベテランパイロットたちが多く、世界最高レベルの練度を誇っていました。

攻撃は第一次と第二次の2隊に分かれましたが、二度目の攻撃は行わず、空母機動部隊は帰途に就き、途中ウェーク島を空襲し、単冠湾を出撃してから28日間の作戦行動を終えて12月23日に呉軍港に帰投しました。

世界史に残る革新的で衝撃的な大事件

今では「空母機動部隊を編成してその機動力と長距離打撃能力を活かして敵の弱点を突く」というのは、海軍強国の基本戦術となっています。その先駆けとなったのが、この日本海軍による真珠湾奇襲攻撃です。日米両海軍を含め、世界中の海軍で、大艦巨砲主義に拘る勢力がまだ大きかった当時、このような最先端の戦術を見事に成功させたことは、その後の海軍史に大きな影響を与えました。

この戦術を防ぐにはその広大な作戦範囲をまんべんなく常に防御しなければならず、莫大なコストがかかります。海の守備範囲が大きい国家の場合は、自軍も敵軍と同じように空母機動部隊を編成して対処せざるを得なくなりました。

戦艦は海戦の主役から下り、艦砲射撃で上陸作戦を支援したり空母を護衛する脇役になりました。翌々日に発生したマレー沖海戦で、日本の基地航空隊がイギリス東洋艦隊の主力戦艦2隻を撃沈し、世界で初めて作戦行動中の戦艦を撃沈することに成功し、名実ともに航空機の時代がやってきました。

また、政治的にも、日本のアメリカ・イギリスに対する宣戦布告により、ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告することとなり、オランダや中華民国(国民党)も日本に宣戦布告をして、戦場が主としてヨーロッパに限られていた第二次世界大戦が、全世界に広がることとなりました。

日本軍の奇襲に警鐘を鳴らしていたアメリカの新聞

実は、日本軍の真珠湾奇襲攻撃の直前に、「日本軍が次の週末に攻撃をかけてくるだろう」という報道をした新聞が、アメリカにいくつもありました。

日本はすでに、石油や戦略物資の輸入をABCD包囲網(アメリカ、イギリス、中華民国、オランダ)などにより止められて経済封鎖されていましたので、備蓄が日々減っていることは容易に想像でき、日米交渉の成り行きなどを考えると、一週間前の11月30日か12月7日の対米開戦が有力視されていました。アメリカ軍人・軍属の多くが日曜日に休日を取って教会などに行き日曜日は警備が手薄となりますので、もし攻撃があるとすれば日曜日であると予想されていたからです。

実際に真珠湾攻撃が行われたのは日本時間の1941年12月8日の月曜日ですが、ハワイの現地時間では12月7日の日曜日で、一部新聞の予想は当たりました。大方のアメリカ軍人は、もし日本海軍の空母の攻撃があるとすれば香港かシンガポールかフィリピンではないかと考えていたと思いますが、被害を受けてアメリカ国民を団結させるためルーズベルト大統領が真珠湾奇襲を予測していてわざと対処しなかったとの説もあります。

日本海軍は鹿児島の錦江湾を真珠湾に見立て、浅瀬での雷撃訓練を繰り返していました。これを欧米人全てから隠すことはできませんし、11月下旬から日本の空母が行方不明になったことも分かっていたはずなので、真剣に情報を集めてしっかり分析していれば、太平洋艦隊司令部が日本海軍の意図に気づくことができたのではないかと思います。やはり油断が大きかったのでしょう。

最後通牒や宣戦布告は必要だったのか

当たり前ですが、相手に攻め込まれた場合のような自衛戦争の場合、こちらから最後通牒や開戦通告・宣戦布告などやりようもありません。ですから、自衛戦争なら最後通牒や宣戦布告は必要がありません。また、第一次世界大戦後のパリ不戦条約において戦争は国際法違反となりましたが、自衛戦争は除かれていました。

「相手が攻撃してくる兆候があり攻撃される前にこちらから攻撃する場合」や、「相手が経済封鎖などの戦争行為を既に行ってきている状態でこちらから攻撃する場合」なども自衛戦争と見做すことができ、何が自衛戦争なのかという定義が難しいものです。

日本の立場では、ABCD包囲網などで既に経済封鎖を受けており、帝国の自存自衛のためにやむを得ず開戦に踏み切らざるを得ないということで自衛戦争を主張でき、最後通牒や宣戦布告が国際法上必要なかったものと考えられます。また、アメリカ側がハル・ノートにより既に最後通牒を行っていたとする説も有力です。

では日本に対する経済封鎖は妥当だったのかということを考えてみます。アメリカ側は日本が仏印進駐のような侵略的行為を行ったから経済封鎖をして当然と言うでしょう。日本側は国民党軍に武器を援助しているから援蒋ルートを遮断するために外交交渉によって進駐するのは問題ないと主張します。アメリカ側は日本が中華民国を侵略しているのだから武器を援助して当然だと主張するでしょうし、日本側は国民党軍が上海租界に侵攻してきたから戦闘が拡大したのだと主張するでしょう。

国民党側は日本が盧溝橋事件で攻め込んできたと主張するでしょうし、日本側は国民党軍から射撃してきたのだと主張するでしょう。国民党側は日本が柳条湖事件で攻め込んできたと主張するでしょうし、日本側は満州は満州族の土地で清国と満州国の皇帝・溥儀が正当な統治者だと主張するでしょう。

遅れた最後通牒「帝国政府ノ対米通牒覚書」

私は、日本は既に経済封鎖などの戦争行為を受けており、日本側はハル・ノートを最後通牒と受け取っていたことから、日本からの最後通牒や宣戦布告は国際法上は必要なかったと考えます。真珠湾攻撃に先立つこと約2時間、日本陸軍は既にイギリス領マレー半島に上陸を開始していましたが、イギリスのチャーチル首相は日本軍の最後通牒や宣戦布告が無かったことを全く責めていません。

ただ、昭和天皇は東條首相に「間違いなく開戦通告を行うように」と告げられ、東條首相は開戦前に通告するように計らいました。昭和天皇が元々対米開戦に強く反対されていたことは有名ですので、せめて堂々と戦いたいとの思し召しだったのでしょうか。しかし実際には、ワシントンの日本大使館員らは職員の送別会に参加するなどの職務怠慢により攻撃開始に間に合わず、真珠湾攻撃開始の約1時間後にアメリカ側に最後通牒である「帝国政府ノ対米通牒覚書」を手交しました。

日本軍の戦果と損害

オアフ島には既に初期のレーダーがあり、日本軍機が映っていたりしたものの、アメリカ軍の油断もあり結果的に日本軍の奇襲は成功しました。

戦術的な結果だけを見ると、アメリカ太平洋艦隊は数カ月にわたり無力化され、日本軍が東南アジアのほぼ全域を、太平洋艦隊に邪魔されず安全に占領するだけの時間稼ぎをすることができました。

日本軍の参加戦力:航空母艦6隻、戦艦2隻、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦9隻、特殊潜航艇5隻、艦載機350機など。

アメリカ軍の参加(駐留)戦力:戦艦8隻、重巡2隻、軽巡6隻、駆逐艦30隻、その他48隻、飛行艇14機、基地航空機399機など。

日本軍の損害:未帰還機29機・損傷74機(戦死55人)、未帰還潜水艇5隻(戦死9人、捕虜1人)。

アメリカ軍の損害:戦艦、4隻沈没、1隻大破、1隻中破、2隻小破。その他艦艇、沈没2隻、大破6隻、中破1隻、小破2隻。航空機、破壊188機、損傷155機。(戦死2,345人、民間人死亡68人。)

夜明けとともにオアフ島の北数百キロに展開していた6隻の空母から飛び立った第一次攻撃隊(183機)が現地時間の午前8時前に攻撃を開始し、約1時間後に到着した第二次攻撃隊(167機)が入れ替わり攻撃しました。

第一次攻撃隊指揮官機が発した奇襲成功の意味の暗号電がかの有名な「トラ・トラ・トラ」です。ハワイ北方約400キロに居た空母機動部隊だけでなく、日本の連合艦隊旗艦の長門や、大本営でもその無線電信は聞こえたそうです。空母機動部隊では参謀長が司令長官の手を取って落涙するほどの感激で覆われたとのことです。

軍事施設だけを狙った真珠湾攻撃

攻撃に参加する搭乗員に対し、市街地や非戦闘地域に対する攻撃、非武装の民間人に対する攻撃を禁止する旨が厳重に言い渡されていました。

攻撃の巻き添えになったり、アメリカ軍による対空射撃の破片などにより、民間人に68名の死者と35名の負傷者が出ましたが、ホノルル市街に落ちた日本軍の爆弾は誤作動による1発だけでした。

真珠湾攻撃で日本軍が病院を爆撃するシーンなどを私も見たことがありますが、それらはでっち上げです。真珠湾にある軍事博物館などでは、日本軍の真珠湾攻撃が軍事施設だけを狙ったものであったことをしっかりと記述し、その公正な攻撃に対し敬意を以て展示をしています。

多くの国民がラジオで対米開戦を知り、不安を覚えながらも歓迎した

12月8日の日本時間午前1時半ごろマレー半島上陸作戦が、午前3時半ごろ真珠湾攻撃が始まりましたが、同日に「対米英宣戦の詔勅(米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書)」が渙発されました。「東アジアの安定のために日本が行ってきた積年の努力を無にしないよう、日本の自存自衛のためにやむを得ず開戦に至った」とし、その理由が書かれています。

米国及び英国に対する宣戦の詔書

これを受けて午後7時過ぎに、東條英機首相が日本国民にラジオ放送を通じて決意表明を行いました。「事ここに至っては、日本は現在の危機を打開して自存自衛を全うするために、断固として立ち上がらざるを得なくなった」などと述べています。

大東亜戦争開戦時の東条英機首相によるラジオでの決意表明「大詔を拝し奉りて」

これらをラジオで聞き新聞で見た当時の感情について、多くの人は「気持ちが昂り、よしやってやろう」という気持ちだったと回想しています。今から考えると、GNPで約11倍の差があり、資源の量では何十倍何百倍も差があったアメリカに対し、どうして無謀な戦争を仕掛け国民もそれを歓迎したのか、と大いに疑問に思うものです。

1つ踏まえたいのは、「私たちが知っていることを当時の日本人がよく知らなかったことが多いとともに、私たちが知らないことを当時の日本人がよく知っていたこともまたとても多い」ということです。

実は軍が暴走して国民は仕方なく戦争に参加させられた、というように勘違いしている人が多いように感じますが、軍が暴走した事例はあるものの、一般的には、新聞などメディアに煽られた国民の側が、軍の弱腰の対応を批判し、メディアが軍に対して報道により圧力をかけるという全くの逆の状況でした。

多くの新聞の売り上げは、このときものすごい勢いで伸びました。新聞各社は、売り上げを伸ばすため、より勇ましくより大きな戦果を望み、軍に圧力をかけ戦線を過度に拡大させたのではないかと邪推してしまいます。

ただ、新聞が「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」を合言葉に悪い中華民国を懲らしめようと主張するだけの、通州事件を筆頭とする国際法や国内法に違反する数々の暴虐な行為を、中華民国人が行い行わせていたことは紛れもない事実です。通州事件の残虐さを今の人はほとんど知りませんから、当時の日本人のことを理解できないのです。(というより忘れさせるように仕向けられているのでしょう。)

援蒋ルートで国民党軍を支援する米・英・蘇

支那戦線では、日本軍に協力的な第二国民党(汪兆銘政権)軍の兵士も数十万人いましたが、おおよそ日本軍の約10倍の国民党軍の兵士がいました。そもそも事変が本格化し戦争状態になったのは、圧倒的な兵士数とドイツ軍事顧問団の支援により過信し、日本軍に対して十分に勝算があると踏んだ国民党軍が、1937年8月13日に上海の日本租界に大規模な軍事攻撃をかけたからでした。

しかし、上海租界の小規模な日本軍守備隊の頑強な抵抗を受けて足踏みしている間に、日本本国からの応援部隊が逆上陸してきて包囲されそうになり、国民党軍は総崩れとなりました。12月13日に国民党軍は首都の南京を陥落させられ、1940年には工業生産力のおよそ9割と沿岸の港のほとんどを日本軍に占領され、武器弾薬も全く足らなくなりました。

そんな時に、国民党軍に対して、援蒋ルートと呼ばれる今のベトナムやミャンマーを通るルートを使って、アメリカ・イギリス・ソ連がどんどん武器援助をし、国民党軍は首都を重慶に移して抵抗を続けられたのです。アメリカ・イギリス・ソ連は国民党軍が日本軍に今にも降伏しそうな状況を感じ、肝を冷やしていたようです。

援蒋ルートを断つため、ドイツに敗れドイツの傀儡政権となったフランスのヴィシー政権と交渉して、日本は1940年に北部仏印、1941年に南部仏印進駐します。これが、アメリカ・イギリスなどの怒りを呼び、ABCD包囲網による経済封鎖に繋がったとされる訳ですが、そもそも国民党軍を支えていたのはアメリカ・イギリス・ソ連であり、アメリカは既に国民党軍に義勇軍を送って日本軍と戦ってすらいました。

ですから、ここで私が書いたことを当たり前に知っていた当時の日本人が、アメリカに対して敵愾心を持ち、アメリカ・イギリスが強大な敵だとしても立ち向かって正義を行い、世界最古の国である日本の存続のために戦うことを強く支持したのではないでしょうか。

実際、日清戦争・日露戦争でも、相手の経済力や兵力は日本の何倍も大きく、国際的にも日本が負けて当然と思われていましたが、実際は日本の勝利に終わりました。日ソ中立条約もありましたし、対米英戦争においても、ドイツ・イタリアが同盟国なら何とかなると考えても、何の不思議もありません。

ルーズベルト大統領の対日批判

ルーズベルト大統領は日本の真珠湾攻撃を卑劣なものとして大いに非難し、アメリカ国民が団結する結果となりましたが、日本外務省の怠慢により最後通牒が遅れたことをそれほど非難してはおらず、「アメリカとまだ外交交渉を続けている段階で、真珠湾を奇襲した日本の空母機動部隊が既に作戦行動を開始していた」ことを非難しています。

真珠湾を奇襲攻撃した日本の空母機動部隊は、11月26日にハワイへ向けて択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾を出港しましたが、12月2日最後の日米交渉が行われ、12月3日に大本営より機動部隊に対して「ニイタカヤマノボレひとふたまるはち」の電文が発信されて攻撃命令が下されたました。外交交渉がまとまれば引き返させる手筈でした。当時の日本は、戦略物資の備蓄が日々減ることやアメリカ軍の戦力が日々増強されることから、一日でも時間が惜しかったのでしょう。

ルーズベルト大統領はワシントン時間の12月8日昼に、議会と国民に向けて演説を行いました。「アメリカ合衆国にとって恥辱の日」とのフレーズが印象強いこの演説は、彼がコピーライターの力も借りずに完全に独力で書き上げたもので、アメリカ国民6,000万人がラジオで聴いたという、ラジオ史上最も聴かれた演説となりました。

Franklin D. Roosevelt’s Infamy Speech

戦略的・歴史的意義

戦艦4隻撃沈、1隻大破、1隻中破という大戦果を収めた真珠湾攻撃でしたが、航空母艦が不在であったことや、沈没した戦艦のうちの多くは後に引き上げられて戦列に復帰したため、アメリカ軍の損害は半年か1年ほどで回復しました。太平洋艦隊の半年分の重油を備蓄していたタンクを攻撃すればよかった、などの意見もあります。また、日本軍の伝統的な「漸減させつつ自軍に有利な近海に引きつけて討つ」戦略の方が正しかったかもしれません。

日本軍は石油やボーキサイト、鉄鉱石や天然ゴムなどの戦略資源確保のため、東南アジアが重要な目標でした。「対米開戦はせずイギリス・オランダのみと戦争していたらよかったのではないか」という疑問は誰でも持つと思います。

この場合、フィリピンにアメリカ軍の陸海空の大部隊が移駐し、日本のシーレーンはその真横を通ることになり、いつでもどこでも日本軍が最も困る時期に弱い場所を突いて奇襲攻撃をかけてくる可能性が高く、それに常に備え続けなければならず、イギリス・オランダ相手にうかうかと戦争をしていられない、という事情が大きいでしょう。アメリカが本気でフィリピンを要塞化すれば、それを陥落させてシーレーンの安全を確保することは困難を極めます。

戦後にGHQで戦史研究の責任者であったアメリカの歴史学者ゴードン・ウィリアム・プランゲの以下の著述が的を得ていると思います。

「客観的な物の見方をするアメリカの人たちはみな、例え世論に驚かされても、日本の真珠湾攻撃が輝かしい海軍作戦であったことははっきり認めた。それは、独創性、不断の訓練、技術的な知識、そつのないタイミング、正確無比な実施行動、非情な勇気、それに途方もない幸運を要する作戦であった。数えることができないほどの困難や大変な障害にもかかわらず、日本海軍は広範な規模の独創的な計画を立て、それをいささかの支障もなく実施したのであった

しかし、戦術的にいかに輝かしいものであったにしても、日本の真珠湾攻撃は、政治的にはまったく比較するものがないほど愚かしい行動であったと言わなければならない。アメリカ国民を、ルーズベルト大統領の下に鋼鉄のように堅く結束せしめるのに、これ以上確実な方法はなかったからである。」(Wikipedia 2019年2月16日 (土) 08:15)

真珠湾の今

真珠湾は相変わらずアメリカ海軍の一大軍港として機能していますが、真珠湾攻撃で爆沈した戦艦アリゾナは引き上げも断念され、当時のままの状態で沈んでいます。時折艦体から重油が海面に浮き出てくるということで、その上に建てられたアリゾナ記念館は多くの人が兵士の冥福を祈る場所となっています。

戦争末期に就航し硫黄島の戦いや沖縄戦に参加した戦艦ミズーリは、退役してアリゾナ記念館の近くに固定されて、ミズーリ記念艦となっています。1945年9月2日に降伏文書の調印が行われた様子が展示されており、沖縄戦のときに日本軍の特攻攻撃を受けた跡(爆弾不発の為損害は軽微)も残っています。

近くの戦争博物館では、日本海軍の戦術や海軍兵士の勇敢さを称え、真珠湾攻撃隊を送り出す空母赤城の巨大な模型が、搭乗員や作業員に至るまで細かに再現され、国の為に命を捧げた勇敢な兵士たちと、最先端の戦術で世界史に大きな影響を与えた日本海軍への敬意を以て展示されています。

戦争博物館(World War II Valor in the Pacific National Monument)

実際に「多言語学習サイト・メモリーサポーター」で読んでみましょう

文中にリンクを張ってきたように、多くの歴史的イベントが「多言語学習サイト・メモリーサポーター」に記事として収録されています。

「メモリーサポーター」は無料ブラウザであるグーグルクロム専用となっています。最大8つの言語を段落ごと対応して同時に表示でき、グーグルクロムの機能により最大約36ヵ国語が10段階の速度で朗読できます。

何度も同じ言語を表示してそれぞれ違う速度で読ませれば、日本語訳を読ませる前後に英語を徐々に速くしながら何度も読ませることができます。日本語と英語と中国語を交互に読ませることもできます。

メモリーサポーター本体には、約2100本の記事が収録されており、多くの記事には日本語・英語・中国語を中心に数ヵ国語の翻訳が付いています。それらの翻訳は全て人間の手によるもので、機械翻訳は用いていません。

メモリーサポーターには主に下記の3つの学習方法があります。

①様々な検索条件で内蔵記事を検索して学習する。リンクはこちら

②「貼り付けページ」にコピペして学習する。リンクはこちら

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歴史カテゴリーの記事ですので詳しい説明はここでは省きますが、ぜひメモリーサポーターを活用し、皆さんの語学学習にお役立てください。

 

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